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大船観音寺 沿革

釈迦は菩提樹の下で坐禅をされ悟られたといわれ、その禅の教えは釈迦より28代を経て達磨大師に受継がれました。その達磨大師の禅を日本に伝えられたのが道元禅師。道元禅師が開かれた福井県の永平寺、道元禅師の教えを弘め曹洞宗団を形成された瑩山禅師が開かれた神奈川県の總持寺を両大本山とするのが曹洞宗です。大船観音寺は大本山總持寺の直末寺で、本尊は、聖観世音菩薩を祀っています。

昭和2年2月、この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集い、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という「護国大観音建立会」の趣意書を作成し、観音像建立費15万円、付属施設建設費5万円を目標金額とする寄付金の勧募が始められました。

 

昭和4年4月14日、起工式が行われ、工事が着手されました。
「日本一の大観音像建立の工事は、先般来、地均し工事中であったが、数日前、地均しが完成したので、14日愈々、起工式を行ふことになった。立像台石高さ30尺、身長百尺の鉄筋造といふ偉大なもので、奈良東大寺に在す日本一の大仏さんに約2倍の高さである…」という記事は、当時の『横浜貿易新報』です。
しかし、建立予定地が丘の突端で地層が東側斜面に崩れる地層であることから、当初の計画である立像建立を変更しなければならないこととなり、坐像を検討したが地形との調和がとれないことから、胸像に変更されたといわれています。

 

そして、世界恐慌という世相の中で寄付金は思うように集まらず、昭和9年にはとうとう工事が中断され、観音像は未完成のままの状態で23年間放置されることとなりました。

工事の中断を憂慮し高階瓏仙禅師(=当時)は、『大船観音完成促進総願文』(昭和14年10月)の中で「今般忠霊顕彰会の発起に依り皇軍の英霊は各地に奉祀されるることとなれり。然れども未だ支那軍戦死者の霊をも平等に供養する表式無し。依って本会は日支親善の情誼及び宗教的超越観地より怨親平等の大慈悲心に基づき皇軍幾萬の英霊と倶に同じく興亜戦線の犠牲たる支那軍の戦霊をも併せ祀りて平等利益の法楽を薦め離苦得楽の冥福を回向して<中略>目下大船駅頭に聳ゆる未完成なる大観音の完成を達成して興亜戦霊総供養の一大記念佛と為さんと欲す」と述べられています。

昭和14年当時、日本各地に日本軍兵士を讃える「英霊」が奉祀されていく世の風潮の中で、日本人も中国人も平等に供養していくということを主眼として大船観音完成を願う高階禅師の願いが明記されています。

昭和20年8月15日、大戦が終結。すでに、頭山満氏らも没し、花田氏らが絶対としてきた天皇主義が敗戦によって崩壊したこと等から、観音像建立への覇気は薄れてしまいます。

昭和25年6月から昭和28年7月にかけての朝鮮戦争による特需で、日本は一気に経済力を復興させ、高度成長の時代を迎え、観音像再建に向けて動き始めます。
後に五島美術館館長となる西村清氏は、昭和28年の大晦日に五島慶太氏の私邸に呼び出され、「僕の学友牧野良三君や高階瓏仙禅師から、昭和4年に手がけて未完成のままであって、荒れ果てた大船観音を完成するよう」指示を受け、財団法人の設立手続きから大本山總持寺へ経営が移譲されるまでの間、業務を統括することとなりました。

昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏らが発起人となって発足しました。
このことによって、「護国大観音建立会」とともに世相浄化という目的は消滅したこととなります。
鳩山内閣の文部大臣に就任した安藤正純氏が死去したことにともない、同じ鳩山内閣の法務大臣牧野良三氏を発起人筆頭として、募金趣意書「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、大船観音尊像の完成を発願いたしました」を配布し、1口百円の資金集めを開始しました。
そして修仏は、すべてを一新することとしました。


画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に、同大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとに修仏工事が進められることとなりました。

昭和32年5月18日、起工式が行われ、昭和35年4月28日に落慶式が行われています。総工事費は4千数百万円だったといわれます。

以来、観音像は財団法人「大船観音協会」の名によって運営され、その中心となるのは東京急行電鉄を核とする東急グループ(当時61社)によるものでした。仏具1つを購入するのも東急社員の募金によるものであったといいます。このような関係で、現在も東急グループ各社の発展と安全を祈願するための法要が毎朝行われています。

 また、白衣観音の胎内では鎌倉市内の戦没者の位牌が祀られ、毎年鎌倉市及び遺族会により慰霊法要が行われています。

昭和44年8月、神奈川県原爆被災者の会において被爆25年の記念事業として原爆犠牲者慰霊碑建立が計画され、同会の会長と東急の関係者が懇意であったことから現在地を無償で提供し、昭和45年4月18日慰霊碑の除幕式が行われました。
現在も毎年9月末に、この慰霊碑の前に神奈川県在住の原爆死没者の関係者が集い、慰霊法要が行われていました。
財団法人が設立され20数年をかけて、寺院としての宗教行事、礼拝のための施設を整備していく経過の中で、前述の西村清氏が中心となり地元有志との「大船観音特別維持会」が組織され、将来に亘る護持運営についての具体策が話し合われます。
大船観音協会の理事長であった牧野良三氏が昭和36年に逝去して以来、その運営は専務理事であった五島昇氏に負うところが大きかったといわれます。昭和46年4月、空席であった理事長に横浜市鶴見区の大本山總持寺貫首岩本勝俊禅師が就任すると、観音像を参詣する信者らから「信仰の場への移行」という要望がさらに切なるものとなり、昭和54年12月25日財団法人「大船観音協会」はその解散と宗教法人への移行を決定します。

このことにより、曹洞宗の包括下にある「大船観音寺」としての準備と手続きを行い、昭和56年11月20日神奈川県より寺院としての認証を受け、現在に至っています。